「ただ念仏して」とは何か 2023年7月

 私は、2007年以来、家族と共に真宗会館の日曜礼拝・座談会と、城南地区会で聞法してきた。妻は要介護となり、私も81歳、鎌倉から真宗会館へ車で行くことも困難になりつつある。
 本部通信には2015年~「ただ念仏」の教えから何を受けとめたか、を書いてきました。それを振り返って、私の新たな聞法への契機にしたい。
2015年 「親鸞聖人が2011年3・11の大震災・原発事故に遭われたら、どうされたであろうか」という問いと、母の死去から「ただ念仏」の生活が始まりました。
2016年 「ただ念仏」とは、五悪の世界・社会の課題を背負って生きる、それが罪悪生死の凡夫の「ただ念仏」の生活である。課題は「十七条憲法」の精神から、国とは何か問うことでもある。私は国家と国とは異なり、国家は暴力組織であり、国はいのちの関係性であり、願い求める浄士のことではないかと思います。
2017年 前年の相模原障がい者施設殺傷事件の犯人は改定教育基本法の人間観を持ち、そして犯人も障がい者も、この人間観では自己の居場所を見いだせないと。親鸞聖人の人間観は「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(唯信鈔文意、聖典553頁)で、それを「こがね」とするのが如来である。人間が思う意味と価値は、平等に”無い”。国家・社会が、“われら”に与える意味と価値を真宗の教えから問い直す、それが聞法である。
2018年 吉永小百合の「第二楽章」原爆の詩、それに続く「長崎から」「沖縄から」「福島への思い」は一人ひとりが尊い存在であると表現していると。そして御遠忌テーマを「今、(尊い)いのちが(尊い)あなた(尊いわたし)を生きている」と受け止めました。
2019年 御遠忌に際し差別の討論をされた『響』を読みました。文明の発展・進歩と言いながら、それはまた、優劣・強弱・賢愚・勝敗・浄穢等の価値観に支配されており、種々の差別を生み出しているのだとも言われている。
2020年 「信心獲得」について、「自然法爾章」の獲と得の意味から、因位の時に獲(う)る(賜る)のが信心で、果位に得(う)る(賜った)生活が「ただ念仏して」の信心生活ではないかと受け止めました。
2021年 コロナ禍の「仏法のともしび」の聞法から「実存の信心」という課題をいただきました。中津功先生はコロナ禍という「危機的状況の中でこそ、大自然から人間の生き方が根本的に問われていることを感ずる」と言われました。その「感ずる私」こそが、「ただ念仏して」の実存の信心の私である。
2022年 『曽我量深説教随聞記(1)」に「時代とともに、時代を追う。時代を超越して、時代と歩む。それなしにほんとうの正しい信仰は得られない。」(152頁)と教えられました。南無阿弥陀仏とは「今。此処」にある「憾じる私への」問い・問われる如来からの言葉です。
 
 タモリのいう「新しい戦前」を、今この身にひしひしと感じる。私は親鸞聖人の教え、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典627頁)と、私の生活を問い・問われる聞法を続けます。
                        


 城南地区会 釈普現 森田正治