東京真宗同朋の会では、昨年11月24日から26日にかけて、真宗本廟報恩講奉仕団に参加し、25日の夕刻の『御伝鈔』の拝読に耳を傾けることを中心に、御正忌報恩講ならではの特別講義(梛野明仁先生『琵琶で語る親鸞聖人御絵伝の世界』)、渉成園での清掃奉仕など、真宗本廟奉仕の生活を過ごしました。

阿弥陀堂で説明を聴く
今回、ご一緒させて頂いた方々のうち、半数の方々は、初めて上山されたとのこと。配布されたプリントを熱心に目で追いながら三帰依文を称えられたり、真宗宗歌や恩徳讃を歌われ、また、貸し出された勤行本を眼光紙背に徹すとご覧になられているお姿を拝見し、「この度のこのご縁は初事と思うべし」ということを思わせられたことでございます。

御影堂門を経て渉成園清掃に向かう
ご開山聖人のご生涯に想いを馳せますと「親鸞聖人当流弘通の始は坂東常陸の国笠間稲田と云う処なり。彼寺の本尊聖徳太子にましますなり」(『御伝鈔』に「救世菩薩の告命を受けし往の夢、既に今と符合せり。」(初版p733、2版p888)と言われるところですね)と言われることがありますように、関東でご開山さまが触れ合われた人々のなかには聖徳太子を信仰していた非定住民(職能民)がおられたのではなかろうかと推測されます。
浄土宗(鎮西義)第七祖了誉聖冏上人のお書きになられた『破邪顕正義』には「浄土宗の行人と号して観音・勢至等、雑行に云わく堅誡の結句、十人が八九人は新堂を建立し阿弥陀をさえ背くまでこそ無けれども本尊と為し奉らず、専ら太子を以て本尊に安置『我は是れ正の中の正、専修の行人なり』と。豈に是れ爾らんや、笑うべし、笑うべし。」とありますが、理屈っぽい、あるいは、語弊のある言い方をしてしまえばややエリート主義的な気も致します。
あるいは、ご開山聖人における聖徳太子信仰は、その善光寺如来信仰と並んで、法然上人の御門下において、ご開山さまに固有とまでは言えずとも特徴的なことなのかも知れません。
今に残る聖徳太子孝養像などは、庶民がつくらせているため、美術的には洗練さに欠けるものが多いと言われます。残された文章を見ますと、追善供養、滅罪、あるいは自らの浄土往生が願われたものと窺われるわけですが、しかし、思いますに、家族を亡くした人々が、故人を偲び、また、自分がやるべきだったのだがやらなかったこと、やるべきでなかったのだがやってしまったことについて後悔と自責の念に駆られ、そして、また会える世界があるのだと思わねばおられなかったということも、人間として自然なこととも思われることでございます。
おそらく、本願寺としては、実は庶民のそのようないわば民間信仰的とも民俗とも言えるような聖徳太子信仰(あるいは観音信仰や善光寺如来信仰)には、本願寺の御法義という点からは、必ずしも中核的な関心はなかったのではなかろうかとも思われますが、それでも、こんにちに到るまで、浄土真宗のお寺には必ず聖徳太子の御絵像があるということに、なにらか大切な意味があるのではなかろうかとも思わせられることです。
まとまりのないことでございますが、紙幅が尽きました。南無阿弥陀仏。
東京真宗同朋の会 西川 直樹[釋 道樹]
