亡・母から受け継ぐ
私の母は、一度も会ったことのない父と昭和8年に結婚し、翌9年に長女を、16年に次女を、19年に私を出産した。父が83歳で亡くなった後23年間、生きぬかれた。当初は、独居生活だったが、90歳を迎える頃に脳出血で倒れ、その後、母には思いもよらないことだったが末娘であった私たち家族と同居した。何故なら、長女は50歳で、次女は35歳で他界したからである。母は娘達の葬儀に参列しなかった。悲しさのあまり参列できなかったのだ、と思う。
母の人生は、苦労続きだった。父親は母が3、4歳の時に亡くなり、後家となった祖母は、長男は男子だからだと大学に進学させ、妹も女学校に通わせたが、母には、尋
常小学校で卒業させ、電話交換として働かせた。母は、女学校に行き、教師になり、独身でいたかった、とよく言っていた。
第二次世界大戦中には、東京茅場町に住んでおり、空雲を逃れるために実家のある熊本に帰ったが、そこでも空襲に遭い、山深い宮崎へ逃れたりし、家財道具等も焼
け、身一つになった、という。戦後も食糧難が続き、末娘の私の育ちが悪かったそうだ。
母は晩年になり、自分は幸せだった、母親が自分を女学校に行かせなかったのは、正解だったと、しみじみ言ったことがある。何故なら、もし教師になっていたら自分は子どもたちを戦地に喜んで送りだしていただろう。戦後は、その罪を背負って生きなければならなかった、と。
母には10代から浄土真宗があった。困難を生きぬいてこられたのは、仏様と一緒だからだった。母は私たち家族と同居するようになり、日中、家族は誰もおらず寂しい毎日であった、と思うが、ある時、母は私に、寂しくないよ、いつも仏様と一緒だから、と言った。私は、その言葉を聞いた時に、私を心配させたくないので、言っているのだろうと、思っていた。
しかし、今は、違う。母は仏様と一緒だったのだ、と得心できる。時に、私自身も仏様と一緒なのだ、と感じさせていただくことがあるので。合掌
哲学堂地区会 世話人 渡部 照子