本部通信 2025年4月

「お墓は誰のためにあるのか」
 
 私はなぜか若い時からお墓にこだわりがあった。

 私の生家のお墓は、以前家があった土地にポツンと立っており、お盆や祖父の命日に車で30分程かけてお墓参りに行っていたが「自分はそんな狭い所に入りたくない」と思っていた。平成9年に亡くなった父の命日のお墓参りでもその思いは変わらなかった。

 それなりの年齢になり、結婚を前提に付き合っていた相手に「結婚してもそちらのお墓に入りたくない」と伝えたところ、結婚する前にそんなこと言うなと叱られたこともあった。

 (こうして当時のことを文字化してみると、私は面識のない人と同じ墓に入りたくなかったのかもしれない)

 それから数十年が経過し、私は没後は自分の所属寺の合葬墓に入れていただくことに決め、住職から法名をいただいた。そして、私の中のお墓問題は一旦収束したのである。(それは面識のない人々と同じ墓に入ることになるのだが、これはまさに「倶会一処」である。)

 その後、生家の墓じまいの話題が持ち上がり、母は私とは異なる生家の所属寺の合葬墓に入るという…一方、私の所属寺は現在、跡取り未定の状況…さて、どうしたものか。
 
 私はお墓参りをせずとも父のことは思い出す。しかし、2,3年前に知り合いの方が亡くなった時、お墓参りをしたいと思った。
 
 また考え悩み始めた。私にとってお墓とはいったい何なのか?

 心の中にそんな疑問を抱きながら、聞法を続けていたところ、ふと思った。
 
 私が亡くなったら皆さんはお墓参りに行くのかな?思い切って友人や知人、職場の若手に聞いてみると「行きますよ!」という答えが返ってきた!

 そうか!私のお墓参りをご縁としてお寺、仏法に出遇ってもらえれば! そう閃いた。
 
 これで私の腹は決まったのであった。

 南無阿弥陀仏

釋尼淑縁 藤原淑子

敬弔
宮島ヒサ様 (法名:無量院輝尼妙久) 東京都中野区 2025年1月命終満97歳
大久保かず子様 (法名:輝尼明鏡) 東京都杉並区 2025年3月命終満98歳
ご生前のご厚情に深く感謝するとともに念仏合掌して哀悼の意を表します。