本部通信 2025年5月

 先日、とある方から東京真宗同朋の会の15年史・20年史と当時の会員の方の声をまとめた書籍の、一部分の写しを頂戴して拝読した。まず、寺の生まれではない会員が主体であることがこの会の肝であることを、皆さん常々念頭に置きながら活動されていたことが感じられる。また、世話人のお坊様方や在家会員の方々が、チラシ配布のみならず、その辺のお宅へローラー作戦で戸別訪問されていたと知り度肝を抜かれた。時は高度成長期、地方からの急速な労働移動を背景に、故郷から孤独を抱えてやってくる人々の心を、法華系新興諸教団がわしづかみにしていたそんな東京で、かれらの向こうを張りながら。現代の我々も何かできはしまいか…とはいえ、人口も経済規模も縮小均衡期に入ったとの声もある現代、戸別訪問はさすがに…と思いつつ、東京メトロに真宗会館主催の仏教講座の広告を出して受講者が急増したとも聞く。

 しかし、「自信教入信(自ら信じて人を教えて信ぜしむ)」(善導大師『往生礼讃』)ともいうわけで、その意味を例えば真宗大谷学園Webページにある「存立の精神」にたずねれば、

教育(「教入信」)は、自己を知る(「自信」)ことにおいて成立する。「自己を知る」とは、我々が根底に持つエゴイズムの自覚である[中略] 「真宗の精神」は、このような人間凝視を可能とする[中略]それは教育の実践において、自己を問い続け、有限なる自己(理性の有限性)を再認識することで「共生」の世界に立つこと

となる。それは、ビラ配りをパンパンしたり、身の回りの人々に聞かれもしないのにドシドシ真宗のお話ばかりしたり、ご法座に誘いまくったり、という姿よりも、自己の有限性を問い続けることを自分の身の上に「実験(清澤満之師)し、それを見た他人に何かが触れ何かが伝わり、それが機縁となってその人の法を聴く歩みが始まるところに成立するもの、要はそんな「用(はたら)きとしての仏」の連鎖、「阿弥陀さんのお仕事」だと思っていた。
 
 ところが、その「お仕事」が知らぬ間に最近の自分の身の回りで加速中であるように思えてならない。当方の「世のなりわい」はスペイン民主主義研究とスペイン語教育だが、その縁で、ニューヨークの開教使・名倉幹先生が帰敬式をされたコロンビア(スペイン語圏)人お3方からなるオンラインのご法座・コロンビア真宗サンガに、沖縄別院の法務員・仲西朋子さん(大阪外大スペイン語科卒)と一緒に名倉先生の通訳として参加している。「真実教」はいつでも、どこでも、だれにでもはたらいていることを実感するし、また自分の仏教・真宗の領解や、それを我が身の上でどれほど「実験」し得ているのが問われる機縁となっている。オドオドしつつも何かに突き動かされつつ、本業そっちのけで通訳や勉強に精が出てしまう。…とまあ、これを書くこと自体、阿弥陀さんのお手柄を我が物としているな、とも思うわけでもありまして。トホホ。

加藤 伸吾

敬弔
  森田 五百子 様 (法名:釋尼恵実)    愛知県名古屋市   2025年4月命終 満83歳 

  掘 正義   様 (法名:浄光院釋正念)  東京都墨田区    2025年4月命終 満84歳